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エドキスタジオ

ニコニコ動画の投稿や同人活動、ほかゲームや映画などの日々を思うままに。

ミスト

ミスト
THE MIST

ミスト

2007年 アメリカ映画
監督・脚本 フランク・ダラボン
原作 スティーヴン・キング
音楽 マーク・アイシャム
出演 トーマス・ジェーン
   ローリー・ホールデン
   ネイサン・ギャンブル
   マーシャ・ゲイ・ハーデン
   トビー・ジョーンズ
   ウィリアム・サドラー
   ジェフリー・デマン


 ネットニュースなどでしばしば「後味の悪い映画」「ラストの衝撃的な映画」として真っ先に挙げられるのが本作。コメント欄など皆こぞって本作の名を口にするので、相当なものなのだろうと覚悟して見たが、いやはや噂に違わぬと言うほかなかった。ちなみにこの前日『セブン』を見たのだが、よりにもよってなぜこの二つをいっぺんに消化しようと思ったのだろうか私は。

 本作の主題はモンスターパニックやSFホラー要素より、それを通して閉塞的な環境に追いつめられ、生き残るために個々のエゴをぶつけ合う人間の浅ましさを描くことにある。その点ではロメロ版『ゾンビ』と似ているが、時にユーモアを交えながら進行するあちらと違い、本作は清涼剤的要素がほとんどなく、徹頭徹尾シリアスで陰惨な雰囲気のまま結末へ転げ落ちていく。
 これは視聴にあたってかなり気力と体力を使った。スーパーに閉じ込められてからの展開に癒しや笑い、あるいはダレ場がないので、とにかく疲れた映画だった。

 冒頭、スーパーを訪れた主人公を通して続けざまに紹介される登場人物、直後にスーパーへ閉じ込められる展開の強引さによって視聴者は一気に物語へ引き込まれるが、そこで早速鼻につくのが弁護士のノートンと狂信者のカーモディだ。主人公のデヴィッドには息子のビリーを守るという大義がある以上、彼の主張に耳を貸さない彼らの言動にはやきもきさせられる。
 やがてノートンはデヴィッドの話を信用しないまま、一部の賛同者を連れて外へ出て行ってしまう。カーモディに至っては人々の恐怖を煽ってカルト教団の教祖の真似事を始める。ある夜デヴィッドに協力する一人が彼女を指して「人はむき出しの恐怖に晒されると、解決策を示す人物についていってしまう」と発言する場面では、その通りと頷いてしまうし、カーモディに従わず独自に生き残る道を模索するデヴィッドたちが正しいと思わされる。
 だが結末を知ってから振り返ると、上記の発言は果たしてカーモディやノートンだけに当てはまるものだったのだろうか。デヴィッドが仲間たちと脱出を画策しようと話し合う場面は、見方によれば己の正義に盲目になっている姿であるし、彼らもまたカルトであるとさえ映ってしまう。一人困惑するアマンダにデヴィッドたちがカーモディの危険を説いているところなど、その実は彼女と紙一重だ。

 たらればを振り払えない悲劇的なエンディングだが、エゴを押し通した末に破滅してしまったのは間違いない。かといって脱出せずスーパーに残っていたらカーモディ一派にリンチされていただろうし、最初に出て行った女性が助かりデヴィッドたちが救われなかったのも結果論ではある。だが彼を責めるのも酷な話だろうし、カーモディを擁護する人も皆無であろう。彼女がオリーに射殺されるのは本作で唯一胸のすく場面だ。
 しかし息子を守るために必死だったとはいえ、デヴィッドは当然のようにリーダーシップを取っていた。ノートンやカーモディと衝突する筆頭でもあった。もし彼の人柄がより大人しく、傍観者に徹したり、あるいは周りに流される人物であったなら。もっと言うと、自身の主張を押し出そうとしなかったなら。
 エゴによって導き出される答えに正義や正解などないというテーマかもしれないが、このあまりに救いのない結末は全てがバッドエンドのために仕立てられたようにさえ思えるほど露骨で不愉快である。また見たいと思えるものではないが、二度目の視聴があるなら今度はデヴィッドたちの行動を別の立場から考えてみると、新たな発見も多いことだろう。

※ケチをつけると2007年の映画にしてはCGがちゃちい。そこが主題でないから金をかけなかったということかもしれないが。
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  1. 2018/11/14(水) 16:42:53|
  2. 映画
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ホステル

ホステル
HOSTEL

ホステル

2006年 アメリカ映画
監督・脚本 イーライ・ロス
製作総指揮 クエンティン・タランティーノ
      スコット・スピーゲル
      ボアズ・イェーキン
特殊メイク グレゴリー・ニコテロ
      ハワード・バーガー
音楽 ネイサン・バー
出演 ジェイ・ヘルナンデス
   デレク・リチャードソン
   エイゾール・グジョンソン
   バルバラ・ネデルヤコーヴァ
   ヤナ・カデラブコーヴァ
   ヤン・ヴラサーク
   リック・ホフマン
   三池崇史


 初イーライ・ロス。監禁拷問ホラーという前情報をもって臨んだら、後半がバイオレンス脱出アクションになっていて色んな意味で予想を裏切られた。
 どこかわからぬ閉所に拘束されるというシチュエーションから、当初は謎解き要素のない『SAW』みたいなものというか、純粋に残虐描写を楽しむ作品かと思っていたところ、途中で主人公のパクストンがやたらと逞しくなってしまって、自分や友人を襲った連中に(成り行きではあるが)復讐しながら脱出する展開となる。ゴア描写そのものはなかなか充実しているが、ホラーらしいホラーを期待しすぎると肩透かしを食うかもしれない。
 けど、私としてはこれはこれで楽しかった。ほかのスラッシャー映画とかでわかってはいても募るイライラ、被害者が逃げ惑うばかりで反撃しないことへのじれったさを、こうもストレートに解消してくれるあたり、イーライ・ロスにはいい意味での「俗っぽさ」を感じた。たとえるなら『13日の金曜日』でアリスがパメラの首をはね飛ばした時のようなカタルシスが、本作の後半には幾度もやってくるのである。

 正直、被害者となるパクストンとその友人ジョッシュとオリーは、クスリはやるわ誰彼構わずセックスするわで、彼らが悲惨な目に遭ってもまるで同情できなさそうに見える。彼らが各地で出入りするのも怪しい雰囲気の漂う場所ばかりで、映画はのっけから倫理観に欠けた光景とやり取りの連続で展開されていく。
 しかしやがて彼らが囚われるのは、それらがまだ「現実」の範疇にあったと思わされる、極めて理不尽で非常識な世界である。それも虐殺は金持ちの道楽として行われていることで、オリーとジョッシュはそのために嬲り殺しにされてしまう。言葉が思うように通じない異国の地で、周りがみなグルになって行われる非人道的な娯楽。
 この異常な光景と展開が与える強引さは、無実の彼らがいたぶられることへの同情とフラストレーションを生む。パクストンに至っては行方をくらました二人を探した末に囚われたのだから、きっかけがそれまでのような不純なものでなかっただけになおさらだ。
 ついには指を切断されてしまうパクストンだが、彼を買った「客」が転んで自身の足まで切断してしまうところから、彼の反撃は開始する。さあ、ここからはハラハラしつつも陰惨で爽快な反撃だよ、お立ち合い。
 
 パクストンがわざわざ日本人女性を助けに戻ったり、車での脱出や検問のシーンなどご都合主義も多いが、この映画は緻密な駆け引きとかを主題とした映画ではないので気にすることはございません。自分たちを陥れた連中を轢き殺し、当初はむかつく存在だった子供たちをも味方につけて追手を殺させる。
 どうせ「脱出したと思ったらやっぱりダメでした」的な結末なんだろう、という大方の予想を裏切って逃げおおせたパクストンは、ついでにジョッシュの仇の男を見つけて駅のトイレで追い詰める。ここにきてこの映画における反撃のカタルシスは絶頂を迎える。彼が個室のドアを蹴破るタイミングの心地よさといったらほかにない。

 と、この映画における拷問ホラー要素は、後半のカタルシスを引き立たせるための布石だったというのが私の受け取り方である。逆に純粋なホラーとして見てしまうと、拷問シーンにいかにもなBGMを使っていたり、人体破壊描写をじっくりと映さないカット割りが先立ってしまい、「痛い」とは思えてもあまり怖くない。これより残虐描写をはっきり映す映画はまだまだほかにあるしね。
 ところで、三池崇史はどんな「商品」をどのように楽しんだのだろうか?
  1. 2018/11/07(水) 17:12:54|
  2. 映画
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エレファント

エレファント
ELEPHANT

エレファント

2003年 アメリカ映画
監督・脚本 ガス・ヴァン・サント
出演 ジョン・ロビンソン
   アレックス・フロスト
   エリック・デューレン
   イライアス・マッコネル
   ジョーダン・テイラー
   ティモシー・ボトムズ


 『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見てコロンバインの事件に興味を持ったところで、関連作品として挙げられた本作が目についた。実際には同事件をモデルにしたフィクションだが、その内容は壮絶なほどの生々しさに溢れている。
 無名の現役高校生を配したキャスト。
 ピアノで弾かれる『月光』と『エリーゼのために』以外にほとんど流れないBGM。
 役者の後ろをずっとついていくだけのカメラ。
 何の意味も伏線もない、他愛のないやり取りの繰り返し。

 DVDのパッケージなどではジョン・ロビンソン演じる金髪の少年・ジョン(役者は多くが実名で出演している)があたかも主役であるかのように写されているが、映画の中では彼に特別な役回りや見せ場はない。酔っぱらった父親を送って学校に遅れ、校長に絞られ、泣いていたところを慰められ、友人と話をし、犯人とすれ違いで事件に巻き込まれずに済んだ、というだけである。
 本作は学校に通う高校生たちの一日を、各々の視点から淡々と映す群像劇だ。映像は彼らの誰にも肩入れすることなく、分け隔てなく、全てをあるがまま「平等」に描いていく。「劇的」な演出を一切含まないそれはドキュメンタリー的でもあるし、あるいは日記のような、ただ映しているだけのものにも見える。

 上記のジョンのほかにも、カメラがその姿を追う高校生たちは様々だ。
 写真部で活動するイーライ。
 ガールフレンドと待ち合わせるイケメンのネイサン。
 周りの女子からダサいと陰口を叩かれるミシェル。
 女友達とダイエットや母親の愚痴に花を咲かせるジョーダン。
 友人のエリックと共に銃撃事件を計画するアレックス。

 映像や台詞のほとんどは、彼らが生活する光景がひたすら映されるばかりだ。しかも同じ場面を、その場に居合わせた登場人物一人一人の視点を交錯させながら映していく。
 たとえば、廊下でジョンがイーライに写真を撮ってもらっている間、その脇をミシェルが駆け抜けていく。写真を撮ってもらったジョンが校舎を出ると、物々しい出で立ちのエリックとアレックスとすれ違う。
 廊下でジョンに会ったイーライが写真を撮る。それから彼と反対の方へ歩いていき、図書室へ入る。その後ろをミシェルが本を載せた台車を押していく。
 図書室での用事に遅れそうなミシェルは、ジョンとイーライの脇を通り抜けて図書室へ駆け込む。教師に頼まれ、本の片付けをしようと、やがて入ってきたイーライの後ろを通って本棚の前まで行く。その時、後ろからコッキングの音が響いて振り返る。
 ジョンに「校舎に入るな」と警告したエリックとアレックスは、計画に則って爆弾を仕掛けるが、不発に終わる。予定を変更して図書室に赴いた二人は、そこで本の片づけをしようとしているミシェルの後ろに立つ。何事かと振り向き、声をかけようとした彼女を、アレックスが射殺する。

 これらの流れからわかるのは、登場人物の描写・扱いがことごとく「平等」であるということだ。彼らの中には主役も脇役も、さらには善と悪もおらず、「彼がこうしていた時に、彼女はこうしていた」というあるがままの光景が、省略されることなく映されている。
 そして彼らはみな同年代の人間たちだ。皆がおおよそ同じくらいの年月を重ねて生きてきたという一面がそうして語られているわけである。
 エリックとアレックスは、そうして自分たちと同じ歳だけ生きてきた人間を、呆気なく殺していく。

 これは、本当に恐ろしいことである。同時に本作が、これ以上なく「命」の重みを描いた作品であるとも言える。
 虐殺が始まってなお、カメラはアレックスを今までと同じように映す。彼らの凶行に晒される高校生たちも同様だ。死が目前に迫っても、あるいは生命を奪う最中にあっても、カメラは「平等」で在り続ける。そこで起きていることは、ただあるがままでしかないと開き直っているかのように。命に貴賤も老若も区別はなく、全ては等しいものだが、だからこそ1つの命が10の命を奪ったとしても、その1つの重みが増す、特別なものとなるわけがないのである。

 タイトルの「エレファント」には様々な意味が含まれており、中には「群盲象を評す」ということわざも込められているらしい。元々はインド発祥の寓話で、「物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう」というたとえで用いられる。
 エリックとアレックスが凶行に至った原因は、コロンバインの犯人と同じく学内でのいじめであることが触れられている。しかし劇中での描写はアレックスが授業中に物を投げつけられるくらいで、それ以上の仕打ちを受ける場面はない。
 いじめられっ子が相手に復讐すると、俗な我々としてはそこにカタルシスを覚えてしまうものである。コロンバインの事件にしたって、今日の我々からすれば「殺されるほど恨みを買っていたなら死んでせいせい」と思うところも、決してないとは言い切れまい。
 それがいいか悪いかは別にして、問題なのはどういった経路でその情報を知り、そう思うことになったのかということだ。第三者である我々には、当事者である彼らの全貌を知る由はない。コロンバインの場合、犯人まで自殺してしまったのだから。
 事件の状況と断片的な情報のみで、犯人の動機どころかその人格まで推測するのはナンセンスである。ワイドショーで「専門家」が事件をやたらと類型化したがったりするのがどれほどしょうもないかがわかる話だ。
 
 とにかく、この「平等さ」はほかに類を見ないほどの表現手法であり、同時に恐ろしい演出である。
 娯楽的に楽しめるという映画ではまったくないし、人によっては退屈もするだろうが、史上例のなかったコロンバインの事件を、マイケル・ムーアとはまた違う切り口で取り上げたガス・ヴァン・サントの手腕には脱帽するほかない。『サイコ』でやらかしたからあんまりいいイメージなかった監督だったけど……。
  1. 2018/11/07(水) 02:01:41|
  2. 映画
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風が吹くとき

風が吹くとき
WHEN THE WIND BLOWS

風が吹くとき

1986年 イギリス映画
監督 ジミー・T・ムラカミ
日本語版監督 大島渚
原作・脚本 レイモンド・ブリッグス
音楽 ロジャー・ウォーターズ
声の出演 ジョン・ミルズ
     ペギー・アシュクロフト
日本語吹き替え 森繁久彌
        加藤治子
        田中秀幸
        高井正憲


 『スノーマン』などで知られるレイモンド・ブリッグスの同名漫画が原作である。
 現行のDVDにプレミアがついていて視聴を諦めかけていたところ、近所の図書館にVHSで置いてあって無事鑑賞が叶った思い出。まだVHSが見れる環境に生きていることを幸せに思う。

 核戦争の悲惨さを描いた作品として『はだしのゲン』と共にトラウマに挙げられることも多いが、こちらは凄惨な死体や流血描写はなく、老夫婦二人が放射能によって次第に衰弱する様を淡々と描写していく。だがその展開がとにかく陰鬱を極め、この絵柄でのほほんと暮らしていたキャラクターがやがてぐったりとしていく様は、後のまどマギやエルフェンリートも真っ青なほどショッキングである。

 主人公の老夫婦は純朴で平和ボケしきっており、核爆弾に対する知識も備えも支給されたパンフレットに頼るばかり。戸を外して壁に立てかけただけのものをシェルターと信じて疑わず、被爆後も外を出歩く、雨水を溜めて飲むなど、その行動の数々は滑稽でもあり、限りなく恐ろしくもある。
 しかし二人に支給されたパンフレットの内容は、当時のイギリスで実際に出回っていたものに沿っているという背景を知ると、彼らだけが無知であったというのではなく、これが当時の一般国民にとっての「普通」の認識であったということが浮き彫りとなってくる。なおのこと恐ろしく、おぞましい話である。被爆国の我々からは想像もつかないずさんさだ。※1
 テレビもラジオも通じず、食料も底を尽き、毛が抜け、吐血し、斑点ができ、それでも助けが来ると励まし合う二人は、放射能に冒され死に至るとはとうとう知る由もない。荒んだ生活、弱り果てていく身体と精神の極みにあって、「トイレにネズミがいた」と泣き叫ぶヒルダの姿はあまりにも痛ましい。日本語吹き替えで見たが、ここの加藤治子の演技は前半とのギャップも相まって鬼気迫るものがある。
 そしてヒルダと共に「紙袋」に収まったジムが最期に朦朧と詩人テニソンの詩※2を呟き、自分たちの命運を悟ったようにして物語は終わる。エンドロールで流れるデヴィッド・ボウイの明るい歌がまた皮肉だ。

 しかしそれでこの物語を、二人の無知さ、愚鈍さが招いた悲劇とだけで片付けることはできない。確かに二人は能天気ではあったが、こんな僻地にあって、情報や物資も限られる中で、平和に浸り過ぎた民間人が受け止めるには、核戦争という現実はあまりにも重すぎるはずなのだ。
 結局、戦争によって最も悲惨な目に遭うのは、殺し殺される軍人でも、国の存亡を握る政治家でもなく、何の罪もない民間人なのだと突きつけられる。月並みな感想ではあるが、これ以上どう解釈しろっていうのさ、こんなおぞましい殺人を。

※1 けど例の原発の問題を見るに、わが国だろうとずさんなものはずさんだったりする。
※2 アルフレッド・テニスンの詩『軽騎兵の突撃』より「600の兵士は進む」が引用される。クリミア戦争で下された命令の愚かさを知りつつも砲兵隊に突撃し全滅した兵士たちの最期を引き合いに、ジムは国を愚直に信じ続けた自分たちの末路を悟る。
  1. 2018/11/03(土) 00:53:19|
  2. 映画
  3. | コメント:0

バッドボーイズ

バッドボーイズ
BAD BOYS

バッドボーイズ

1995年 アメリカ映画
監督 マイケル・ベイ
製作 ドン・シンプソン
   ジェリー・ブラッカイマー
脚本 マイケル・バリー
   ジム・マルホランド
   ダグ・リチャードソン
音楽 マーク・マンシーナ
出演 マーティン・ローレンス
   ウィル・スミス
   ティア・レオーニ
   チェッキー・カリョ
   ジョー・パントリアーノ
   マーグ・ヘルゲンバーガー


 『木根さんの1人でキネマ』でおススメされていた(厳密には続編『2バッド』のほう)ので、どんなもんかと気になって鑑賞。マイケル・ベイは『ザ・ロック』こそ好きなものの、『トランスフォーマー』はいまいち肌に合わなくて、少し敬遠していた監督だった。『アルマゲドン』? もちろん批判派だよ私は。
 とはいえ、前情報の時点で本作はいかにもアメリカな娯楽映画とは聞いていたので、そう割りきって見るべきものなのだろうと思って臨んだ。実際その通りで、最初から最後まで頭を空っぽにして楽しめるアクションコメディである。抜群のテンポとカット割り、ウィットに富んだ会話、外連味たっぷりの演出の連続で飽きずにダレずに突っ走る。ここまで来ると実に清々しい。

 のちの『アルマゲドン』やら『パール・ハーバー』と違って、こちらは下手なお涙頂戴や社会性やらを取り入れようとせず、徹頭徹尾エンターテイメントに終始している。正直な限りだし、私としてはその方が大いに好感が持てる。
 『エクスペンダブルズ』とかもそうだが、この手の映画を「中身がない」とか「テーマやメッセージ性に欠ける」みたいに批判するのはお門違いと言える。だって端からそんな風に作ってないんだもの。某氏の言葉を借りるなら「駄菓子を食べながら『これって栄養ない』と言うようなもの」というたとえに尽きる。アトラクションとしてはこれでいいのだ。反対の賛成なのだ。

 ただ娯楽作品というのを差し引いても、鼻についてしまうのがヒロインのクソッタレぶり。身勝手な言動の数々で足を引っ張りまくるのでまったく魅力を感じられない。この手の「役に立たなくて守られるだけのヒロイン」というのは、そのぶん主役を引き立てることにもなるのだが、塩梅によっては「なんで主人公がこいつに味方しなきゃいけないのか」という引っかかりを生んでしまう。
 いや役に立たなくてもいいのだが、ちゃんと感情移入できる部分、人間として敬意を表せるところを作っておくべきだと思うのだ。個人的には『暴走特急』に出てくるライバックの姪とか、その点で理想的と言える。

 で、2003年に公開された続編『バッドボーイズ2バッド』は、本作をさらにスケールアップ。この手のアクションにしてはやりすぎじゃないかと思える147分の長尺ながら、テンポのよさのおかげでまったく冗長さを感じさせずに突き進む。木根さんのおススメ通りお腹いっぱいになれる1本だ。
 ただ長尺の割にはこちらはヒロインにあたるマーカスの妹・シドの描写が少なかったり、悪役との決着も少々呆気なかったりする。アクションシーンに特化しすぎた反動と言えようか、もう少し削ってそれらに回せるところもあったのではなかろうか。
 それと2020年には3作目の公開も予定されているらしい。監督が変わるのはともかく、『2』から17年ともなるとさすがにウィル・スミスもマーティン・ローレンスも老けすぎてるような。というか『さらば あぶない刑事』みたいになってるような。

※ぼぶさん。
  1. 2018/11/02(金) 00:56:02|
  2. 映画
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プロフィール

江戸木檀介

Author:江戸木檀介
ニコニコ動画でゆっくり・VOICEROID実況だったりNovelsm@sterを作っていたり。
ほか同人サークル「エドキスタジオ」主宰。
BOOTH→https://edokistudio.
booth.pm/
ニコニコ→http://www.nicovideo.jp/user/41359372
Twitter→https://twitter.com/silvercase25

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